
昭和三十四年の九月号の本誌に「石のことば」と表題のついた見開きのページがあって、
特別のレイアウトによる次の文が載っている。
―石はことばをもっているのです。それは、こころの声のこだまなのです。
だから数かぎりない石の中から一つをひろいあげたとき、もうその小石は
二つとない石になっているのです。そして、みつめる私に文字よりも確かな、
もっと確かな言葉で話しかけるのです。―
そして、続いて八人の方々の「石のことば」が掲載されているが、その中から御二人のことばをご紹介しよう。
十三番地の石
小林 キク
「水泳の練習も今日が最後だ。みんなとこんなに楽しく泳げる日は二度とめぐってはこないだろう。しっかりやってくれ。」
私はそんな言葉をうわの空で聞いていた。土手の百合がほしくて、そっと横目を使っていた。でも先生は私を叱りはしなかった。
「きくちゃんは泳ぎたくない顔をしているな、衣類の番をしていてもいいよ。」と笑顔でいわれた。私の胸がドキンと音を立てた。
顔に血がのぼるのがはっきりわかった。
夕方。「よく番をしていてくれた。ごほうびに何かやりたいが、先生ははだかで何もないから……これをやろう。」
一握りの砂を私の手にのせた。みんながわーっと笑った。先生は笑わなかった。
砂がさらさら落ちて、手の平にたった一つ石が残った。まあるい平たい黒い石を、私は何ということもなく持っていた。
防空壕にとびこんだ時も、叔母の家に養女にもらわれて行った時も。
一昨年暮、姫鏡台の隅にその石を発見して、無性に先生にあいたくなった。現在教員六十、児童二千五百という、県下に知られた
須賀川一小を母校にもつ三十才から四十才位の方なら、つづり方教育に熱心であった相楽治雄先生を知らぬ人はあるまい。
福島民報新聞「おら福欄」でたずねたところ市内の蛭田フミ様始め多数の方からくわしい消息を知らせていただいた。
だが何ということだろう。先生は浜田小学校に栄転なされ、名校長としたわれ、最愛の長女までもうけられたのに、まもなく
病死されてしまったという。それさえも、もう十五年も前のことになる。でも今でも先生の郷里石川町双里には、八十才に
なんなんとする老父母様が淋しく暮らしておられるという。
せめて墓前になりと詣でたい。―中略―そうだ!やさしかった先生の思い出の石を、青い窓に送ろう。文学を真剣に愛した先生が
「青い窓の町」の誕生を知ったら泣いて喜ばれるだろう。
そうだ、先生に青い窓の町に住んでもらおう。いつまでも、いつまでも……。
二十七番地の石
山田 修
私は今、新東宝で映画化されることになった“すりばち学校”のシナリオを読んでいます。又、書いては読んでいます。
私としては、この映画は「はてな?」と考える精神を強く出したいと思っています。
そこでこの小石は、だれかの作品に「考える人」というのがありましたね。その考える人に、ちょっと型がにているでしょう。
この小石は“すりばち学校”六十年の歴史をだれよりも、一番よく知っているのです。
どうぞ、青い窓の町に、すりばち学校の小石を参加させて下さい。
考える小石よ
青い窓の町で
だれからも喜ばれてほしい
この町づくり運動は十年二及び一千番地を越えるほどに町並みは広がった。そして、言うまでもなくこの町並みは今もなお
初心の鼓動を打ちつづけている。
(平成二年 青い窓六月号に掲載)
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どこにでもある石。でも想いを吹き込むことで、その石は世界に一つしかない石となります。
小林さん、山田さんの手記からは六十余年経った今も、当時の想いや青い窓への期待が伝わって来ます。
寄せられた石は、開成柏屋入り口にある「青い窓一番地の石」の下に収められているそうです。
初代同人の佐藤、本名、篠崎、橋本は既にこの世を去りましたが、青い窓の町の住民として、
私たちを静かに見守ってくれていることでしょう。
(解説・青い窓事務局