青い窓の会
その1  青い窓の誕生
佐藤 浩
 日だまりのような部屋があった。むしろを敷いていたので「むしろの部屋」と呼ばれていた薄皮饅頭柏屋の本店二階で、以前豆菓子の作業場だった部屋だ。気軽なおしべりとお茶で居心地が良かったので、いろんな人が出はいりしていた。

 その常連の中に、柏屋専務の本名洋一、万年画学生の橋本貢、アルス看板屋の篠崎賢一、コピ−ライタ−の私、という幼なじみの仲間は、遊びや遊び場を共有していたので、いつも子供の頃の思い出に話が咲いた。そんなある日、一人がいった。

「今の子供達はどうしているんだろう。」

 そうだ、そう言われて見ると、『もはや戦後ではない』と言われたのは数年前、戦後復興から新たな都市計画へと、道路拡張や町なみは日を追って進んでいる。その陰で、私達共通の思い出の場所はひとたまりもなく消されて行くのだ。はたして今の子供達が成人した時、私達のように胸をはずませながら子供の頃の思い出を語ることが出来るのだろうか。

「店のウインド−を子供の夢で飾ろう。そして、子供達の思い出の場所にしよう。」

 ちょっとした沈黙の後、本名が唐突に発言した。だが、三人はこの発言を当然のことと受けとめる程、模索は具体化を求めていたのだ。
「児童詩を募集して、そのイメ−ジをデイスプレイしたらどうだろう」と、私が提案したついで橋本がこのウインド−を『青い窓 』と命名した。デイスプレイは篠崎が担当することとなった。三月上旬、雛あられを食べながらのおしゃべりで、『青い窓』の基本構想は生まれたのである。そして、五月一日のオ−プンを目ざして準備は着々と進められた。
 昭和33年5月1日、朝8時。『青い窓』と名づけた子供の夢のウインド−が呱々の声を上げた。季節の詩と、そのイメ−ジをデイスプレイした窓は初夏の風のようにさわやかだった。しかし、なんの前宣伝もなかった幕開けはむしろ静かなものとなった。人為的につくり出したものの短命さを知っていた私達は無理をせず自然の流れに身をゆだねることにしたからだ。そして、窓から、あるいは店で配るパンフから詩の投稿を呼びかけたのである。

 最初の月に寄せられた作品は50篇にも満たず、しかも子供のために書かれた大人の詩「童詩」のみであった。それでも捨て難い愛着を持ったすう変があったので、それらを集録して一枚の詩集300部をガリバン刷りし、投稿者や児童文学関係者に配布した。すなわち月刊『青い窓』の誕生である。

 このような状況がしばらく続き子供自身の手になる「児童詩」はごくわずかしか投稿がなかったそんな折り、童画家の初山滋さんから次のような便りが寄せられた。

 前略、詩という一面ほのかにショッパイ、また福島という土地、そこの土によしあしはともあれ、育まれつつある、雑草みたいでよろしい多くの子供の詩を育てていってください。
 おとなじみた詩は花屋の店に並んだ花みたいで、ほどよくきれいでの余りに人工的で、温室育ちみたいです。夜ねむると寝床の中で静かにおしっこする、たまんね、朝起きるとけろんとし、何かにつけ一日中駄々をこねる。そういう児の詩をみつけたいもんですね。但し『青い窓』のデザインはむづかしいでしょう。
体をゆさって笑えるような詩もあってよろしいでしょう。

ボクノネル フトンガ
マホウビンダトイイ
シテシマッタ オシッコ
サメナイダロウ

ソトハ アメガフッテル
フトンノナカデモ
アメガフッテルミタイダナ
フッテル フッテル
マケナイゾ

 これじゃ鼻つまみでどうにもならないけど、『青い窓』を飾るデザイナ−困らせるに好適な詩なら、佳作のトップになる。
戯書ごめんなさい。
みなさんによろしく。
1999(平成2年3月 青い窓リーフレットNo.383掲載)